システム、コミュニティ、原発と地方の未来
今更ながら、山下祐介さんの「東北発の震災論」を読んだ。
人のためのシステムが高度化し、やがてシステムのための人になる。
そしてシステムの中央にどっぷり浸かった人は、周囲が見えなくなる。
なんだか言っていることがマルクスみたいだ。
でも、それは確かにそうだと思う。そして誰もかも(もちろん自分も)システムの上で、システムの維持のために思考させられている。
しかも、システムは高度化しすぎて、誰も全体が把握できなくなっている。
これから、地方はどうするべきなのだろうか。
人材もない、お金もない。どちらも都市部にどんどん流出していく。
若者は特に、大都市に出て大企業に就職できるのが勝ち組、地元に残るのはマイルドヤンキー、みたいな価値観なのだろうか。
とすると、日本の将来と日本人の幸せのために、地方は消滅して問題ないじゃないか。長い目で見て、何が問題なのだろうか。
ヒントがあるとしたら、私たちはシステムの中でしか思考ができないということだろうか。
このような考え方も、まさにこのシステムの中にどっぷり浸かった考え方だ。
きっと地方問題はそのような経済性と勝ち負けの話ではない。田舎と都市の問題ですらない。
「コミュニティの解体と個人の原子化を突き詰めて、果たして資本主義の基礎となる『社会』そのものを再生産できるのか」が問われているように思う。
今、随分ぶりに道州制のことを考えている。
システムが広範囲化し過ぎて見えないところがあるのなら、システムを細かく区切ってしまえばよいのではないか。
具体的には日本を10数ブロックに割って、それぞれの地方で内政を自由にやってもらう。
地方には首都も、各地方版の中央官庁も、各地方の中心となる大学も用意する。外交・防衛以外はすべて自分たちで決められる、くらいに分権する。
エネルギーも各地方の領域内で調達する。原発すら各地方内に置く。そして「人のふり見てわが振り直せ」式に、政策を他の州と競い合う。
このように制度からはじめて、市民の政治参加への意欲をかき立て、公共圏を再構築できないだろうか。
戦国時代は領民を繋ぎとめるため、各国ごとに分国法を作って統治技術を競い合った。
それでは、同じことを現代でもできないだろうか?